「野良犬の夜は長く」⑦ 私とナボコフ
この世界には役に立たないものなど何一つもなく、どれだけ無為に見える行為や出来事にも、私たちの人生においてそれなりの意味があるはずだ。少なくとも私はそう思う。しかし、「役に立つ」という言葉は私たちの生きる世界ではその意味が捻じ曲げられ、制限されてしまっているように感じられる。だから私たちの世界には「役に立つ」ものと「役に立たない」ものがあるのだろう。 「役に立つ」とはなんだろうか。現代の日本で生きていると呪いのように付きまとうこの言葉。私たちはいつだって問いを強制されている。「それは役に立つのか否か?」私の研究は何の役に立つのか。研究をしていた頃、何度も私はでっちあげを書いた気がする。そう、各種提出書類に。「私の研究は~に貢献することを確信する」「相互理解に」「文化の理解に」「創造的能力の開発に」 … 。そして、文章を書いた後にきまってみじめな気持ちになるのだ。嘘だ。私の研究はあなた達の言葉で「役に立つ」ものではないのだ。それはいたって限定的で、そして個人的なものなのだ。 「役に立つ」とは「経済的利益に繋がる」ということだ。私たちの生きるこの資本主義社会においては。そして文学研究というものは、そういう意味において、この世界で「役に立たない」ものの内の一つだと私は思う。だからこそ私は喜ばしい心の震えをもたらしてくれる研究という行為に没頭しながらも、心のどこかでやましい気持ちを抱えていたのだ。そして頭に問いが浮かぶ。「私の研究は何の役に立つのか?」 ナボコフの『文学講義』はそんな私の心を幾分か軽くしてくれる本だった。そして今も事ある毎に読み返す大切な本だ。 ナボコフが世界の古典的名作を題材に、文学作品を味わう方法を伝授する『文学講義』。そこで彼は、文学作品は「贅沢品」だと言う。 わたしがこの講義で取り上げた小説から、きみたちがはっきりとした人生の問題に応用できるようなことは、なにひとつ学ぶことはできないだろう。これらの小説は商社の事務室や、軍隊のキャンプや、台所や、育児室ではなんの役にもたつまい。実際、わたしがきみたちと分け合おうとしてきた知識はまったくの贅沢品だ。それはフランスの社会経済を理解したり、女性の心や青年の秘密を理解したりするには、なんのたしにもならないだろう。(ナボコフ著、野島秀勝訳『ナボコフの文学講義』、河出書房新社、201...