【野良犬の夜は長く②】 私たちは皆...

 最初に断っておくと、この連載は体系的にロシア文学を紹介しようというものではないので、時代が前後したり、思想があっちへいったりこっちへいったりする。なので、「今回は初回ということで古代の口碑・伝承文学から紹介します」ということにはならない。それに学術的な厳密性を追い求めるものでもないので、私の主観が大量に入っている。

 売れていない創作料理レストランの「おすすめ!シェフの気まぐれ料理」だと思っていただければよい。なぜ「ムール貝と夏野菜のサラダ」が秋にお勧めされているのか、客には謎であり、正直提供している本人にも謎なのである。今日は「サラダ記念日」だからくらいの理由であると私は思う。

 ただ、どれだけ気まぐれであろうと、ルーレットなどを使ってランダムにテーマを決めるわけにもいかないので、なにかしら本日に相応しいテーマを選びたいと思うのが人情である。

 「私たちは皆、ゴーゴリの「外套」から始まったのだ(мы все вышли из гоголевской шинели)」という言葉がある。これはロシア文学に触れたことがあれば、必ずと言っていいほど目に入るフレーズで、ドストエフスキーの言葉とされている(いた)。ゴーゴリ(1809-1852)はロシアリアリズム文学を確立した作家とみなされており、後世の作家にも多大な影響を与えた。

 ロシアの近代文学を考える際にはプーシキンという偉大な始まりの作家がいるのだけれども、「ゴーゴリの」のようなパンチの効いたフレーズがあるわけではないので、彼については後日にまわそうと思う。

 というわけで私の連載記事もゴーゴリの「外套」から始めたいと思う。

 ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(Николай Васильевич Гоголь)は1809年にポルタワ県ミールゴロド郡に生まれた。父はウクライナの小地主で、ウクライナ語で韻文や喜劇を書いていたらしい。青年時代は田舎町ネージンで過ごし、そこのギムナジウムに通った。ペテルブルクへ出るのは1828年のことである。

 彼の人生は出版と放浪の繰り返しで、後半生はロシアやヨーロッパでの放浪ばかりである。小説家には変わり者が多いが、実際にゴーゴリの一生を見てみると、「文筆の才能がなかったら大変なことになっていただろうな」と思ってしまう。それと同時に、私は資本主義社会に毒された汚い大人なので、「人気の小説家ってすごくお金が入ってくるものなんだな」と感じてしまうのだ。

 ゴーゴリの処女作は『ガンツ・キューヘルガルテンГанц Кюхельгартен(1829)という詩で、この出版後にゴーゴリは2ケ月ほどドイツへ行き、またペテルブルクへ戻っている。官庁勤めをした後、ウクライナの民間伝承に着想を得た作品を発表。それらは『ディカーニカ近郷夜話Вечеров на хуторе близ Диканьки』(第一集は1831年、第二集は1832年)として出版された。その後、継続的に作品を発表し、1835年出版の文集『アラベスキАрабески』には、「ネフスキイ通りНевский проспект」や「狂人日記Записки сумасшедшего」が収められている。戯曲の執筆も行っており代表作の『検察官Ревизор』は1936年にアレクサンドリンスキー劇場で初演が行われた。

1836年からは外国とロシアを行きつ戻りつしながら作品を創作。「外套шинели」が完成したのは1841年で、未完に終わった『死せる魂Мёртвых душ』の第一部が発刊される一年前である。

 さて、「外套」が登場したのでゴーゴリの簡単な紹介はここらへんで留めておこう。といっても、これ以降彼の創作人生における事件は殆ど無かった。ただ、それは彼の人生における事件がなかったことを意味しない。1952年に若くして亡くなるまで、彼はヨーロッパとロシアを放浪するのである。

 さて、「外套」についてである。ペテルブルクを舞台とした幻想的な短編で、主人公は九等官の官吏アカーキー・アカーキエヴィッチである。彼の仕事は写字であり、ある書類から書類へ文字を書き写していくというもので、彼はその行為に幸福を感じてもいる。ある冬の日に、今まで使っていた外套が用をなさなくなっていることに気づいた彼は新しい外套を買わなければならなくなる。貧乏な万年九等官は苦労して費用を捻出し、新しい外套を買う。最初は乗り気でなかった買い物も、外套の完成の日が近づくとともに段々と楽しみになってくる。彼は、新しい外套を手に入れ、今までの人生で味わったことのないような幸福感を得る。

しかし、物語はハッピーエンドでは終わらない。彼は暴漢に襲われ、新しい外套を奪われてしまう。警察にもとりあってもらえず、心優しい知人の紹介で「とある有力者」に窮状を訴えるが、とりあってもらえない。挙句の果てには頭ごなしに怒鳴りつけられ、冬のペテルブルクを失意のうちにさまよい帰った彼はそのまま死んでしまう。彼の死後、ペテルブルクには奇妙な噂が立ち始める。それは、幽霊が人の外套を剥ぎ取ってまわっているというものであった。

物語のあらすじはこんなところであるが、その内容について書く前に私は、「私たちは皆、ゴーゴリの「外套」から始まったのだ」という始まりの言葉に言及したい。

 そもそも、この言葉自体が、なんとなくゴーゴリ的なのである。どういうことかと言うと、この言葉は長年ドストエフスキーの言葉とされてきたもので、日本でも一部界隈では有名なものだ。ゴーゴリに言及した文章では必ずと言っていいほど引き合いに出されてくる。しかし、ドストエフスキーのどの文章を読んでも、この文は出てこず、言ったかどうかも定かではないらしい。ロシア文学者の川端香男里は『薔薇と十字架』[i]内で次のように述べる。

 

さきほどの《われわれはみな『外套』から》という言葉も、ゴーゴリがリアリズムの父であることの一つの証拠とされてきたが、皮肉なことにこの言葉はドストエフスキイのどの文献にも見当たらず、イタリアのスラヴ学者エットーレ・ロ・ガットの推測によれば、この発言はツルゲーネフのもので、あやまってドストエフスキイのものとされたようである。(『薔薇と十字架』、20頁。)

 

また別の説では、この文の出どころはフランス人外交官で文筆家であったウジェーヌ・メルキオール・デ・ヴォグエがドストエフスキーについて書いた文章であるという。それがドストエフスキーの発した言葉として取り違えられ今にいたっているのだという。[ii]

 つまり、ドストエフスキーの言葉ではなさそうな雰囲気を漂わせているこの「『外套』から...。」という言葉。出どころ不明のものがドストエフスキーの言葉として長い間信じられてきたことや、それが後世に大きな影響を与えてきたことを含めて、なんとなく喜劇的であり、直接当事者に関係ない出来事が独り歩きしているところなど、ゴーゴリ的であるように思えるのであるが、どうであろうか。と言っても、ゴーゴリの作品について語る前から「ゴーゴリ的」とか言われてもなぁ、と思っている人もたくさんいるであろう。

 一言で表すならば「奇妙」なのである。そして、奇妙な物事がある種のリアリティーを持って我々に近づいてくるのだ。

 しかし、「奇妙」であることに変わりはなく、正直に言うと「まともな(?)」感覚を持った人間はおそらくゴーゴリなんかに近づかないに違いなく、もし近づいたとしても途中で我慢できなくなるような気がするのだ。

 ちなみに、私の大好きなナボコフは彼の作品を読む人間に対して次のような注意を与えている。

 

もしもあなたがロシアについて何ごとかを発見したいと思われるなら、もしもあなたがなぜドイツの雷撃戦が失敗したか知りたいと思われるなら、もしもあなたが「思想」や「事実」や「メッセージ」に興味をお持ちだったら、ゴーゴリには近づきなさるな。ゴーゴリを読むために苦労してロシア語を習ったところで、期待どおりに報われることはあるまい。およしなさい、およしなさい。彼から学ぶべきものなぞ何もありはしない。彼の道を横切るのはおやめなさい。これは高圧線だ。立入厳禁だ。危険、触れるべからずなのだ。(『ニコライ・ゴーゴリ』224-225頁)[iii]

 

ここまで書かれると、日本人としては、「振りなのでは?」と勘ぐってしまうし、正直に言うと私は「振り」だと思っている。

 というわけで、作品に入る前に前振りが長くなってしまったが、ゴーゴリという作家と作品が何となく「奇妙」なんだな、ということは伝わったと思うので。今回はここらへんで筆を止めておくことにする。

 


次回更新は1115日(予定)です。

りん(samorin)

[i] 川端香男里『薔薇と十字架』、1981年、青土社。

[ii] Вопросы литературы«Все мы вышли из гоголевской «Шинели» https://voplit.ru/article/vse-my-vyshli-iz-gogolevskoj-shineli-2/ 20211030日最終閲覧)

[iii] ウラジーミル・ナボコフ著青山太郎訳『ニコライ・ゴーゴリ』、1996年、平凡社。

 

 

参考文献

ゴーゴリ作平井肇訳『外套・鼻』、1938年、岩波書店。

後藤明生『笑いの方法‐あるいはニコライ・ゴーゴリ』1981年、中央公論社。

マーク・スローニム著池田健太郎訳『ロシア文学史』1976年、新潮社

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