「野良犬の夜は長く⑥」亡命と文学
道に迷った時、あなたはどんな本を読みますか。
道に迷った時、「つべこべ言わずにグーグルマップを見ろ」と思う方が大半だろう。しかし私が言いたかったのは譬喩的な意味であった。自分が人生において進むべき方向を見失った時。いや、そんなに大それたものでなくていいのだ。日々の生活に追われ、知らず知らずのうちにストレスが溜まっている。冬の家は暗く寒い。やりたいことはいっぱいあったはずなのに、それに向かう気力がない。布団に包まり、望まない睡眠へ落ちていく。そんな毎日が続くような時に、あなたはどんな本を読むだろうか。
そんな時に本なんて読まないと答える方も多いだろう。読書以外の気晴らしの方法を持っている人は、読書をせずに自らの気力を充填し、新しい日々に向かうだろう。一方で読書によって自分の気力やエネルギーを調律する人種もこの世界には存在しているのだ。そして、そういった人々は精神的な調律の際に使う「お気に入りの本」を持っている人が殆どなのだ。
私の「お気に入りの本」は村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』、ウラジーミル・ナボコフの『文学講義』と『ロシア文学講義』だ。「野良犬」はロシア文学の話をすると曲がりなりにも宣言していた気がするので、村上春樹はひとまず置いておく。今日はナボコフからロシア文学の複雑性を見てみようと思う。
まず、ナボコフの話はロシア文学の話なのだろうか。という疑問が湧く。ウラジーミル・ウラジーミラヴィッチ・ナボコフ(Владимир Владимирович Набоков1899-1977)は1899年にロシアはサンクトペテルブルクで生まれた作家だ。彼は初期の作品をロシア語で書いているが、代表作として知られている殆どの作品は彼が渡米した後に英語で書かれたものである。
渡米。彼はアメリカに渡る前にはフランスにおり、その前にはドイツにいた。大学はイギリスのケンブリッジ大学だった。ロシア貴族の家に生まれた彼はヨーロッパを転々とし、アメリカへ渡ったのである。その多くは彼が自発的に望んだ移住ではなかった。彼は亡命ロシア人だった。
亡命。20世紀初頭から半ばにかけてのロシア、そしてヨーロッパ。人々は革命と戦争に翻弄され、多くの人々が故郷からの移住を余儀なくされる。ロシア文学はこの「亡命」によって複雑な歴史を辿る。革命後のソヴィエト・ロシアに留まった作家達と、ロシアから脱出した亡命ロシア人作家の2つの文学史の流れが生まれたからだ。
そもそもソ連はロシアなのか。ソ連文学はロシア文学なのか。亡命ロシア人作家の作品はロシア文学なのか。何をもってロシア文学とするのか。こう考えてみると〇〇文学という物言いは、様々な疑問を含んだ言葉である。そもそも、〇〇文学という分類は意味を持つものなのだろうか。国家の名前が冠された文学史が為政者によって恣意的に作られ、ナショナリズムを高揚させるための装置としての側面を多分に持つ以上は、〇〇文学という言葉を我々はもう少し批判的に見る必要があるような気がする。
閑話休題。難しい事を考えると、今回書こうと思っていたことが何も書けなくなってしまうので、この文章では「ロシア文学」という言葉をふわっとした意味で使っていきたい。ロシア(帝政、ソ連含む)で生まれた人が書いた文学作品(言語は問わない)、あるいはロシア語で書かれた作品、程度に理解しておいてほしい。
1917年の革命後に始まる社会変動では多くのロシア人が国外へ亡命した。亡命ロシア人の文学は亡命者が多くなる時期を起点に区分され、その時期文学は「波」という言葉で表される。革命後の1920年代は「第一の波」、第二次世界大戦勃発後は「第二の波」、スターリン死後の1960年代に国内で活動した反体制作家達が外に出た1970年代のものは「第三の波」と呼ばれている。ペレストロイカ以降に国外へ移住した作家たちの文学は「第四の波」と呼ばれることもあるようだ。
このようにロシアという土地を離れてロシア人の文学は広がっていった。当然、ソ連の中で活動していた作家の文学とは異なる特徴を持つ文学である。更に、ソ連の中でも様々な民族的背景をもつ作家がロシア語で作品を書いたため、20世紀のロシア文学は複雑怪奇なのである。危険で魅力的な創作の深淵。文学史を学びたい人間はそこで道に迷ってしまう。
ナボコフは『ロシア文学講義』のなかで、次のように書いている。
ロシア文学と言われて即座に思い浮かぶこと、「ロシア文学」という概念は、非ロシア人の心のなかでは概ね十九世紀の中葉から一九一〇年頃までのあいだにロシアが五、六人の散文の巨匠を生み出した、という知識に限られている。(ウラジーミル・ナボコフ、小笠原豊樹訳『ナボコフのロシア文学講義 上』、河出書房、2013年、31頁)
トルストイやドストエフスキー、さて、次の世代の作家は?そこにはそもそも「ロシア文学」という言葉で括ることが出来るのかどうかすらわからない無数の文学が私たちを待っている。いつかその迷宮を迷わず進めるような自分なりのロードマップを作れたらいいなと、私は思う。
参考文献
ウラジーミル・ナボコフ、小笠原豊樹訳『ナボコフのロシア文学講義 上』、河出書房、2013年
『ロシア文化辞典』、丸善出版、2019年
Мескин.В.А История русской литературы "серебряного века", Москва,Юрайт,2015
りん(samorin)
次回更新は1月31日予定です。
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