「野良犬の夜は長く④~私の『罪と罰』その②
引き続きドストエフスキー作『罪と罰』の話をしようと思う。
大学生の頃に『罪と罰』を呼んだ記憶があり、話の大まかな筋は覚えていたのだが、今回読み直してみて思ったのは、「こんなにヤバい小説だったっけ?」ということだった。
物書きにはあるまじき語彙力の無さで申し訳ないのだが、最近読んだ小説の中でダントツに「ヤバい」。まず、登場人物に正常な人物が殆どいない。誰かしら何かしらの点でおかしなところを持っているように思える。
まぁ、「普通の人間なんてこの世界にはいない。ましてや小説の登場人物なんだから、話を面白くするために性格の一部が誇張されているのは珍しいことではないだろう。」とか、まともな意見を言われてしまうと、「はい。そうですね。」としか答えようがないのである。しかし、性格の一部が誇張されているとしても、その誇張が極端すぎるのはどうかと思うし、登場人物全員の正気を疑わなければいけないような小説はやりすぎのように感じるのだ。
しかし、その「やりすぎ感」満載の小説に読者をぐんぐん引き込む力がドストエフスキーの文章にはあり、気づくと私たちは酷暑のペテルブルクで、主人公ラスコーリニコフと共に喧騒の中を徘徊し、酒場の混沌の中で議論をし、狭苦しい部屋の中で感情を爆発させているのである。
読了後に作品から受けた興奮をどうしても誰かに伝えたくなってしまう作品がこの世には存在するのだが、『罪と罰』はそんな作品の一つである。読了後数週間は、ラスコーリニコフばりに大きく振れる感情を抱き、マルメラードフのように大仰に語り、同時にポルフィーリー並みに迂遠な話し方の人間になること間違いなしである。
個人的な話になってしまって申し訳ないのであるが、そんな『罪と罰』。私が大学の一年生くらいの時に読んだことは覚えているのだが、この作品に関して他人に語った記憶が一切ないのである。これは、一体どういうことなのだろうか。ただ単に若かったのか。この作品を読んで、特に印象に残らなかったとするならば、当時の私は恐るべき文学的不感症だったんじゃないだろうか。文学的不感症を発症してしまったら直ぐに暗くじめじめした書庫に引きこもり、蠟燭に火を灯し、黴と埃の匂いに抱かれながら、古書に埋没しよう。そうすればあなたは、人間の根源的な悲しみを感じる不幸を手にすることができる。
嗚呼。大学一年生。段々と記憶がよみがえってきた。世界は未来への希望に満ち溢れていた。私は何か意識高い系のアルバイトをしていた気がする。絶え間ない自己研鑽。人間力を向上させろ!見よ!私たちにはバラ色の明日が待っている!様々な出会い。将来への期待。「仲間」達との飲み会。コミュニケーション能力を向上させましょう。社会の役に立つことをしましょう。2年生になったらインターン。英語力を鍛えましょう。3年生では就活が始まります。有名企業に就職しましょう...。
そんな世界で生きている人間に『罪と罰』は必要だろうか。私は必要ないと思う。むしろ有害ですらある。だから、大学一年生の自分が『罪と罰』を読了した後に、直ぐに内容を忘れてしまっていたとしても不思議ではなかったのだ。
閑話休題。『罪と罰』についてである。原題はпреступление и наказание である。ここからはロシア語の話になってしまうのだが、興味のある方はついてきていただきたい。ブルガーコフ風に言うと。「私に続け!読者よ!За мной, читатель! 」というところか。
『罪と罰』の日本語題名は原題からのほぼ直訳である。ただ、この罪(преступление)に関して、先日知人が「грехじゃないんだ」という感想を漏らしていた。
この「罪」という意味を表す単語はロシア語にはいくつかあり、確か10くらいはあったはずである。その中のひとつであるпреступлениеは基本的に「法律上の罪」を意味する単語だ。人が定めたルールに違反した場合はпреступлениеを使用する。動詞ではпреступать(罪を犯す)になり、分解していくとпре+ступатьになる。Ступатьは「踏み出す」や「進む」を意味し、そこに「越える」を意味する接頭辞преが付くわけである。これによって、「何かを越えて踏み出す」という、さらに言えば「一線を越える」といったイメージの言葉になる。定められたルールという線を踏み越えると、「罪」になるというわけだ。
一方、грехという単語は「宗教や道徳上の罪」を意味する。例えば旧約聖書に出てくるような「原罪」はпервородный
грехと表現される。
ドストエフスキーが作品の題名にпреступлениеを使用したのは、主人公ラスコーリニコフが抱く思想が理由であろうと思われる。彼の思想とは端的に言うと、「選ばれし人間である英雄は人が定めた方を犯す権利がある」ということである。ここで問題とされるのは道徳上の罪ではなく、法律上の罪なのである。
ちなみに「罰наказание」の方であるが、こちらも「罪」程ではないが、類語がいくつかある。Наказаниеは、法律上、宗教上の罰の両方に使用できる単語で、最も一般的に使用される単語である。
これは私の勝手な推測だが、ドストエフスキー的には、「罰」の単語選択に関しては、「罪」ほど悩まなかったのではなかろうか。小説を読んでいると、そんなことをふと考えた。
個人的に面白いなと思ったのは、ラスコーリニコフが殺人を犯した後、最初に「罰」を感じるシーンで、казньという単語を使っていることである。熱に浮かされ、正常な判断を失った彼は、自分に犯罪の痕跡が残っていないかを確かめるのだが、どうにもへまをしているような気になる。自分の正常な思考能力が失われつつあることを感じながら彼は「Что,
неужели уж начинается, неужели это уж казнь наступает?(これはどうしたことだ、もうはじまっているのではあるまいか、もう罰が下されかけているのではなかろうか?(工藤誠一郎訳『罪と罰』新潮文庫))」と一人叫ぶのである。Казньとは通常「死刑」を表す単語で、昔の文章だと「罰」を示すこともある。新潮文庫では「罰が下されかけている」と訳されているが、ラスコーリニコフにすれば「殺人を犯し、正常な判断力が失われている。このままだと自分が犯人であることが露見し、具体的な死刑という罰が迫ってきてしまう。」といったような感覚を抱いていたのかもしれない。
さて、意味という面で題名を眺めてきたわけだが、言葉というのは意味だけでできているわけではない。「音」という面でもやはり『罪と罰』はпреступление
и наказаниеがしっくりくるように思えるのだ。
私はロシア人でもないし、ロシア語もひよっこなので、個人的な感性の問題かもしれないが、音読した時にгрех
и наказаниеや преступление и казнь とかだと、やはり締まりが悪いような気がするのだ。同じ4音節でストレスの位置もそろっており、語尾もお揃いの2つの単語だからこそ、すっと心に入ってくるような感じを覚えるのではなかろうか。
色々と題名に関して勝手なことを書いて、ほとんど作品の内容に触れないような記事になってしまった。しかし、内容に触れすぎるとネタバレになってしまうので、結果的によかったのかしらん。
ただ、ネタバレされたくらいでつまらなくなるような作品は、所詮その程度の強度の作品だったということだと私は思うのだ。『罪と罰』に関して言えば、ネタバレされたくらいでつまらなくなる部類の作品ではないので、ご安心を。
りん(samorin28)
次回更新は12月15日予定です。
追記
申し訳ありません。色々とごたごたしていたので、次回更新を12月31日にします。
二回分くらいのボリュームでお届けできるといいなぁ...(希望)
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