【野良犬の夜は長く】① ~ロシア文学についての連載記事を始めます~
なんとなく肩に力が入ってしまい、なかなか記事を書きだせない日々が続いていた今日この頃。私の記事の大半が、更新速度の遅いことの言い訳めいた言葉から始まるのは遺憾であるが、自業自得である。
さて、定期的に記事を更新できるようにするにはどうしたらよいものか、考えていたのであるが、テーマを決めて、週間連載方式で書いていくという方法を思いついた。例えば、「B級グルメ」というテーマを決めたとして、1週間に記事というペースでそのテーマに沿った記事を書いていくのである。
というわけで、思い立ったが吉日であり、さっそく試してみることにしよう。しかし、最初から週間連載というのは飛ばしすぎだと思うので、隔週連載ということにしようと思う。連載ペースが決まったので、次はテーマである。生憎、例で挙げたB級グルメについては書くほどの知識を殆ど持ち合わせていないので、それは無しである。例を見て期待していた人が億が一にでもいたとしたらとても申し訳ない。
さて、前置きは長すぎてもいけないので、テーマは「ロシア文学」と定める、と簡潔に発表しておこう。なにせ、この高度に発達した資本主義社会に生きる真面目な人々には時間がないのである。だからこそ最初に簡潔に結論を言っておかなければならない。効率と生産性、これを高めることが正義なのだ。だが、そんな真面目な人々はこんな記事を読んでいるのであろうか。これは私の勝手な妄想であるが、那由他が一にもこの記事を真面目で勤勉なビジネスマンが読み始めたとしたら一行目を読んだ瞬間に、ブラウザを閉じるのではないかしらん。ここで正直に告白しておくと、この記事にはあなたの生活を豊かにする知恵も、あなたの社会的成功を導くノウハウも存在していないし、これから存在する可能性もございません。未来永劫。
閑話休題。ロシア文学についてである。これは個人的な感想なのであるが、ロシア文学の特徴は「真面目」なところだと思う。何が、どう、真面目なのであろうか。一言で表すならば、より良く生きるということについてストイックであるということになろう。真面目さとは美徳である。しかし、行き過ぎた真面目さは破滅へと繋がっている。ロシア文学は真面目過ぎる。人間の幸福な生活の理想を生真面目に追及し、主人公が、思想が、文章が、そして作者が、さらには読者も、三頭立ての馬車に引きずられるようにして疾走していく。その先には何があるのか、果てのない地平、どこまでも続く針葉樹林の向こうには一体何が待っているのだろうか。何も待ってはいないのだ。そこにあるのはどんづまりである。無限に続く草原はいつの間にか雪と氷に閉ざされ、針葉樹林の奥では悪魔と魔女が跋扈する。社会の救済、人間の幸福、妥協をせずに美しいものを求めていたはずなのに、気がつくと破滅が目の前に迫っている。「一体どこで間違えたのだ!」。間違いなどなかったのである。強いて言うならば、最初から最後までずっと間違っていたのだ。人間は人間生活の理想について真面目に考え続けるべきではないのだ。
すごく抽象的な記述になってしまったが、ロシア文学とはそういうものだ。少なくとも私にとっては。
私がロシア文学と出会ったのは高校生の時であった。トルストイの『アンナ・カレーニナ』。なぜ、あの小説を読もうと思ったのか。今となってはその理由を思い出すことはできない。しかし、読了する前からアンナが鉄道自殺するという結末は知っていた記憶があるので、きっとどこかで読んだか聞いたかしたのだろう。ただ、読了後に感じた「すごいものを読んでしまった」という感覚はまだリアルに思い出せるのだ。一回しかも日本語で読んだだけなので、作品全体の理解度はお笑い程度のものだった。しかし、大学に入ったらロシア語をやろうと思わせるような衝撃を私に与えたのである。
一冊の本が一人の人間の運命を変転させるなどという話はフィクションで語るには面白いが、実際の話として提示されるとなんとも陳腐で、眉唾な感じがする。だからこそ私はトルストイに人生を狂わされたとは言わないけれど、けれどもあの時『アンナ・カレーニナ』を読んでいなかったら、どんな人生を歩んでいただろうと考えることはあるのだ。さぞかし幸福で輝かしい道を歩んでいたに違いない。
文学に優劣は無く、偉大なる芸術家たちの作品はどれも素晴らしいものである。誤解の無いように言っておくと、私は何も「ロシア文学こそが特別で偉大なのだ」と主張するつもりはない。ただ単に、私にとって特別な意味を持っているというだけのことだ。それはいわば偶然であり、月並みな言い方をすれば「運命」であり、星のめぐりあわせであったわけだ。そして私は今でもその「特別な」作品群に心を惹かれ続けている。
記事名「野良犬の夜は長く」は、実在した(する)カフェの名前に着想を得た。カフェ「野良犬(«Бродячая собака»)」は、1911年から1915年の間存在していたカフェで、当時の小説家たちの溜まり場であった。この時期はちょうど「銀の時代」と呼ばれており、ロシアにおいて、新しい時代の芸術が様々な分野で花開いた時代である。そして私がロシア文学史の中で最も好きな時代だ。いくつもの主義や思潮が、古い芸術を打ち壊すエネルギーとして噴出した時代。若き小説家たちはそのカフェで、我を忘れるほどに同志達との議論に熱中したことだろう。紙巻きたばことコーヒーと、そしてアルコールの香り。誰かが詩を、作品を、朗読している。喧々囂々の議論が店内を満たしている。各人から放出される思想は、うねり、混ざり合い、思いもよらなかったひらめきが混沌に輝く。紫煙にたゆたう脚韻、カフェインの香りはアポロンの美を覚醒させ、一方では酩酊がシンボルを先鋭化させる。かくして夜は更けていく。
私はこれから独断と偏見でロシア文学の作家や作品や思潮についての記事を書いていこう。時にはコーヒー片手に、時にはアルコールを嗜みながら、もしかしたら紙巻き煙草を燻らせることもあるかもしれない。だからあなたも、「野良犬」に集まった文士たちのようにゆったりとリラックスした気持ちで私の文章を楽しんでいただければ幸いである。さぁ、夜は長い。まずはどんな作家を、どんな作品を、どんな思想を紹介しようか。
(次回更新は10月30日(土)予定です。)
追記
カフェ«Бродячая собака»は、ペテルブルクに「復活」しており、定期的に文学の夕べも開催している。もし機会があれば立ち寄ってみるのはいかがでしょう。私のお勧めは、ケーキМедовикです。
りん(samorin)
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