過去からの負債か?未来からの投資か?—アパデュライの「消費」論からの示唆—

実は後悔していることがあります。 4年前のあるとき、Amazonにクレジットカードを登録してしまったことです。

いやもっと言えばクレジットカードそのものを作ってしまったことを後悔しているのかもしれません。

クレジットカードの仕組みそのものに疑問を持っているというか、ローンなども含めて将来の所得を担保に何かを購入するということ自体に何か強い不信感を抱いているというのが正確なんでしょうね。
否応なしに消費と労働のサイクルに巻き込まれているようなそんな気がして。

最初にクレジットカードを作ったときは、飛行機のチケット購入やKindleの購入に必要だったためしょうがないとはいえ、自分の口座の残高や現在の所持金という確たる後ろ盾のない、自分が将来得るはずの給与なり金銭を質にいれて物を買うことを何の気なしに行ってしまったことは、いまに至るまで僕を苦しめているような、そんな気がしています。

実は、読書会でアパデュライの論に触れたことで、上記の考えを整理できるようになったのでした。それまでは漠とした不信感だったものが、それを表現するにふさわしい言葉を得たというか、そんな感覚です。

アパデュライは、自著の中で直接クレジットカードの仕組みに文句を言っているわけではないのですが、第4章「消費、持続、歴史」において消費に関する論を展開していく中で、間接的にローンなどの金融商品について言及し、それがどのようなものかを論じています。

彼はまず、人類学の議論を援用することで、消費という行為を新古典派経済学の理論から切り離す作業を行います。
そもそも消費というのは反復によって特徴付けられており、その周期性によって習慣化されていく。なぜなら、消費とは、マルセル・モースがいうところの「身体技法」へと収斂していき、身体が反復的、あるいは少なくとも周期的な規律を求めることになるからである。

消費が周期性によって特徴づけられている」というのはなるほどと言った感じです。
我々の生活というのは、例えば朝起きてから夜寝るまでの生活を思い浮かべればわかるように、どれほど新規性を志向しようとも、最終的にはある程度の同型の行為の反復に収斂していく。
消費とは生活と密着した行為であり、それは社会的なものでもあります。消費は社会生活であったり、生活習慣であったり、様々なものによって規定され、やはり身体技法へと収斂していき、反復あるいは周期的な規律の中に位置づけられていく。
この考え方は個人的にわかりやすいと思いました。

さて、アパデュライは消費を論じながら、「周期性と歴史」という節の中で、過去と現在、未来を行き来する時間を超越した消費感覚を近代に特有のものとして扱い(そんなこと言ってたかな?)、そこから流行とノスタルジアについて話を広げていきます。
ノスタルジアとは本来、「ある生活様式の喪失を嘆き悲しむ正当性をもちえる物たちがひそやかに体現する苦悶」(146p)であるといいますが、この大量消費の世の中において、自身が体験したことのないものにノスタルジアを植えつかせる奇妙な論理が、宣伝や広告の中に巧妙に仕込まれる形で、存在している。これをアパデュライは「想像のノスタルジア」と名付けます。
これによって、消費者は自らが喪失したことのない事物にまで、寂寥の念を感じるようになることができるのだと、いうのです。

また、興味深いことに、アパデュライは、「絶えず変化し続ける取り止めもない特徴」(149p)が流行の核心であると述べています。これは、髪型やファッションにおいて「流行」と呼ばれるものを思い浮かべると納得ができますね。「この秋は〜が来る」という宣伝文句を服屋やSNSで見かけることがありますが、流行というのもののサイクルが、本来想定されるものから完全に逆転しているというか、「みんなが買うから流行っている」というのが流行の本来的な意味であるはずが、「これが流行るらしいからみんなが我がちに買う」、という流れになっている。
今では珍しいことではないですが、これも「現在という時間に固有の儚さを強調する手段」(149p)としての流行のあり方であり、近代に特有の消費行動なんですね。

さて、ここまで長々とアパデュライの論ずる消費と流行の話を説明してきました。正直この話をするのにそこまでいらなかったんじゃないかと思ってしまいますね。
とはいえ、消費の周期性と流行というのは、時間という観念と強く結びついています。
ここで、最初のローンやクレジットカードの話に戻ると、アパデュライは、「時間の商品化」という概念を持ち出して、時間をめぐる労働と資本主義、消費の歪な関係性を論じていきます。
話を端折りますが、消費者の債務がとてつもない規模になっている(いうまでもなくローンや金融商品などによって)現代の産業社会では、金融制度は「貯蓄後ではなく貯蓄前に使い込みたいという消費者の気質を、巧みに利用してきた」といいます。「信用経済(いわゆるローンやクレジットカード)も、賃金の大きな格差にもかかわらず購買力を拡大し、購入可能な物資を爆発的に増大させ、流行の変化を大きく加速させる手段」だというのです。
つまり、「債務というのは、別の手段を介した収入拡大」であると、アパデュライは主張します。

ただし、アパデュライはこうした大きなシステムに巻き込まれていく様子に留保をつけ、「とはいえ、消費者の方も、巧妙に制度化された貸付の単なる操り人形なのではない。」(153p)と述べています。消費者もまた、賃金の格差を超えて購買力を増やした当事者なのだと。
しかし、システムというのは、それを作る側が圧倒的に有利であることを思えば、やはり一消費者として大きな流れに巻き込まれていくことの虚しさを思わずにはいられません。

我々は、コツコツ働いてお金を貯め続ければ、将来的に自分が手にするだろう(と思えるような)商品を、一定の条件を満たせば今この場で手にすることができます。どうやって?それは、債務という手段を通じて。
言い換えれば、将来の自分の稼ぎを今の自分が前借りすることによって、高額な商品を購入することができるようになっているのです。

ダメ押しとばかりに、アパデュライはこう言います。「貸付における大規模な革新は、途方もない文化的衝撃を孕んでいる」と。こうした「革新は、消費者の借入に対して、循環的環境というよりも、無限の環境を創出した」と。
この革新がどれだけの衝撃を与えたかというのは、以下のアパデュライの言葉に凝縮されていると言えるでしょう。
つまり、消費者は、借入を「月収や年収といった、限定的な性質を持つ短期的な循環ではなく、潜在的な生涯買金に対する長期的で線形的な感覚や、住宅などの資産の価値増殖に向けられた同じく無限の感覚と結びつけるに至り」、消費は「所得の地平ではなく、所得の駆動力」(156p)となったのです。
わかりやすく言えば、月収や年収といった限定的な枠内で完結していた金銭感覚が、”潜在的な生涯賃金”という際限のない感覚を得たことによって、また潜在的な生涯賃金を質に入れることで、高額な商品の購入を可能にするシステムが存在することによって、現時点の所得や貯蓄では明らかに購入不可能な商品の購入が可能になり、人々は、その消費を取り戻すために労働を行い、所得を得るようになったのです。

結婚して子供ができて、ローンで住宅を購入した途端に転勤させられた、という話をよく耳にしますが、これは企業の側が「所得の駆動力」を盾に従業員に命令をきかせた事例といえるのではないでしょうか。

わかりやすくなったか微妙ですが。


クレジットカードの気持ち悪さとは何か、ローンや月割りの返済に対する不信感とは何か。
それは、資本の波に呑まれ、資本主義の論理の中に取り込まれ、マネーフローの中で必死に走り続けなければならない産業社会、大量消費社会の辛さを煮詰めたシステムだからではないかと、勝手に思っているところです。

ただ、金融システムの発展が人々に物質的な豊かさをもたらし、ローンその他の信用経済の制度が、自分の生活の内側で細々と生きるだけではない可能性を人々にもたらしているというのも、偽らざる事実ではないかと思います。そう思えば思うほど、非常に複雑な気持ちになります。
153pでアパデュライが述べたことを思い返すと、消費者もまた金融システムを利用して自らの持つ購買力を最大化しようとしてきたようです。これは、植民地において、近代化を志向する知識人たちが植民地当局とある種の協働関係にあったという、いわゆるコラボレーター論を思い出しますね。(なお、読書会仲間のりん氏の示唆によってこの部分を取り上げることになったことを申し添えておきます。)

とはいえ、やはり上記のように、システムというのは作る側が圧倒的に有利であること、システムを利用しているようでいて、やはり利用されている悲しさが我々にはあるのではないかというのが、僕の主張なのです。
先ほども言った通り、僕はマネーフローの中で必死に走り続ける生活は好ましくない、できればもっとゆったり人生を楽しみたいと思うクチなので、こうした文句をぶってみた次第です。

捉え方一つで、信用経済というのは、未来からの借財とも取れれば、未来から現在の自分に対する投資とも取れる。ただし、巨大なマネーフローの渦にひとたび飲み込まれてしまうと前者にならざるを得ない、そしてその可能性は非常に高いと言わざるを得ません。
今日も某通販大企業にビンビンに購買意欲を刺激され、来月の稼ぎをあてに、尽きることのない物欲を満たそうとしている我々は、本当にサピエンスなのでしょうか。

以上、ラシードがお送りしました。



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