ARTARTのロゴを作りました。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 16, 2021 「art」様々な意味を持つこの単語。アートという言葉が含み持つ様々な意味の結節点で、新たな知を生み出していきたい。そんな思いを込めて私たちのロゴマークを作成しました。研究対象を丹念に、時には180度違う視点を取り入れながら分析していく。数多の人の営為(art)が交差する場所、それが人文科学(arts)です。ARTARTは人文科学という学問の枠組みに立脚しながら、探求と表現の場を模索していきます。2021年8月16日 りん リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
「野良犬の夜は長く」⑤~拙訳「あいびき」について 12月 31, 2021 年の瀬になるとセンチメンタルな気分になってしまうのは人の常、というか私の常である。今年の私は一体何を成し遂げたであろうか。色々と考えてしまい、夜しかぐっすり眠れなくなってしまう。まぁ、昼寝もするのだけれど。 さて、昨日 2021 年が始まったように思えるのだが、気づいたら 12 月になってしまっていた。もういくつ寝ると新しい年がやってくるなんて到底信じられない。「人間が勝手に決めた暦に従うなんて馬鹿らしい」と割り切れればいいのだろうけど、そんなに強い人間ではないのである。今年の反省と称して 1 年間の思い出を振り返ることが多くなる。部屋の真ん中に座って、瞑想をするのである。「反省」「瞑想」といえば聞こえはいいが、その実ただ単に何も考えずに座っているだけである。ソシャゲの周回をしている方がまだ生産的だ。 何が言いたかったかと言うと、 12 月に入ってから、今年の自分自身の活動について考えることが多くなったということと、それにつられて更に過去の出来事に関しても考える時間が長くなったということである。ちなみに、今年は自分のホームページも作り、ブログも定期的(?)に更新していたので、素晴らしい一年だったのではないでしょうか。 ただ、ロシア文学とロシア語に関してはやっぱり学生時代のように時間をとれるわけではないので、まずまずの活動だった気がするのである。ことにロシア語については、使うことが殆どなかったので、危機的な状態だ。そういう時に過去を理想化して思い出してしまうのが私の悪い癖なのである。ああ、まだ資本家たちに搾取されていなかった幸福な時代、私はあんなにもロシア語に時間を割いていたのだ … 。 思い出は純化され美化されるのが世の常なので、どうせ学生時代もそんなにロシア語へ時間を割いていないと思うのだが、 12 月の寒さと関東の乾燥に耐えながら人間の生を送っている一人の小さな人間の心の慰めにマジレスする必要もあるまい。ここまで読んでいただいた方はわかると思いますが、今回はいつも以上に自分語りが多めです。 そんな理想化された学生時代に思いを馳せていた時、私はツルゲーネフの作品の一部を日本語訳した事を思い出したのだった。その作品とは「あいびき Свидание 」である。 イヴァン・セルゲーヴィッチ・ツルゲーネフは 19 世紀半ば... 続きを読む
「野良犬の夜は長く③」 私の『罪と罰』 11月 17, 2021 「ああ、これはこれは!この記事の更新は11月15日だと思っていたんですがね ... 。」 「15日!15日だって?とんでもない!いや、失礼。私は確かに次の更新は11月15日と言いましたがね ... 。しかし、考えてみてくださいよ。人間というものが、そんなに厳密に締め切りを守れるものでしょうか?厳密!そう、厳密にです!残念ながら人間というものは ... 一般的に言ってですがね、締め切りなんてものを守れないようにできているのですよ!え?そんなことはない?いや、冷静に考えてみてくださいよ。例えばあなたが何かしらのブログ記事を書くとしてですね。どうしたんです?まだ話の途中ですよ。どうしたんです?腰を浮かせたりして!そうですよ。座ってください。へっへっへ(хе -хе-хе! )なんの話でしたっけ?そうでう。締め切り!締め切りですよ!そうですよ ... 人間なんてものはね、残念ながら放っておけば、締め切りを守らなくなる生き物なんです。こんな話がありますよ。私の住んでいた村ではね ... 」 突然何事かと思われた方もいらっしゃるかもしれないが、最近ドストエフスキーの『罪と罰』を読み返していたので、新潮社版ドストエフスキー『罪と罰』っぽい文章で予告更新日に更新できなかった弁明をしようと思ったのであるが、どうであろうか。私的には、あまりうまくいっていない気がするので、とりあえず無視して流して欲しい気持ちでいっぱいである。 さて、『罪と罰』である。「なぜ、突然『罪と罰』?」と思われる方もいるだろう。これは前回の記事に遡るのであるが、「私たちは皆ゴーゴリの「外套」から生まれたのだ」という言葉が長らくドストエフスキーの言葉として受け入れられていたという事実を紹介した。この文章を書いている時、私は思ったのである。 「そういえば日本人ってドストエフスキー大好きじゃない?」と。 日本人はドストエフスキーが好きである。特に『罪と罰』が好きである。次点は『カラマーゾフの兄弟』である。まぁ、そんなふうに私が勝手に思っているという話である。 しかし、事実、本屋のロシア文学コーナーには必ずと言っていいほどドストエフスキーに関連する書物は2,3冊置いてあるし、古本屋に行くと、ドストエフスキーに関する本の数が他のロシア文学作家について書かれた本の数よりも多かったりす... 続きを読む
「野良犬の夜は長く」⑦ 私とナボコフ 2月 02, 2022 この世界には役に立たないものなど何一つもなく、どれだけ無為に見える行為や出来事にも、私たちの人生においてそれなりの意味があるはずだ。少なくとも私はそう思う。しかし、「役に立つ」という言葉は私たちの生きる世界ではその意味が捻じ曲げられ、制限されてしまっているように感じられる。だから私たちの世界には「役に立つ」ものと「役に立たない」ものがあるのだろう。 「役に立つ」とはなんだろうか。現代の日本で生きていると呪いのように付きまとうこの言葉。私たちはいつだって問いを強制されている。「それは役に立つのか否か?」私の研究は何の役に立つのか。研究をしていた頃、何度も私はでっちあげを書いた気がする。そう、各種提出書類に。「私の研究は~に貢献することを確信する」「相互理解に」「文化の理解に」「創造的能力の開発に」 … 。そして、文章を書いた後にきまってみじめな気持ちになるのだ。嘘だ。私の研究はあなた達の言葉で「役に立つ」ものではないのだ。それはいたって限定的で、そして個人的なものなのだ。 「役に立つ」とは「経済的利益に繋がる」ということだ。私たちの生きるこの資本主義社会においては。そして文学研究というものは、そういう意味において、この世界で「役に立たない」ものの内の一つだと私は思う。だからこそ私は喜ばしい心の震えをもたらしてくれる研究という行為に没頭しながらも、心のどこかでやましい気持ちを抱えていたのだ。そして頭に問いが浮かぶ。「私の研究は何の役に立つのか?」 ナボコフの『文学講義』はそんな私の心を幾分か軽くしてくれる本だった。そして今も事ある毎に読み返す大切な本だ。 ナボコフが世界の古典的名作を題材に、文学作品を味わう方法を伝授する『文学講義』。そこで彼は、文学作品は「贅沢品」だと言う。 わたしがこの講義で取り上げた小説から、きみたちがはっきりとした人生の問題に応用できるようなことは、なにひとつ学ぶことはできないだろう。これらの小説は商社の事務室や、軍隊のキャンプや、台所や、育児室ではなんの役にもたつまい。実際、わたしがきみたちと分け合おうとしてきた知識はまったくの贅沢品だ。それはフランスの社会経済を理解したり、女性の心や青年の秘密を理解したりするには、なんのたしにもならないだろう。(ナボコフ著、野島秀勝訳『ナボコフの文学講義』、河出書房新社、201... 続きを読む
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