バルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』

 この世界に存在している殆ど全てのものは、様々な部品の集合体であり、その部品の相互作用によって動いたり、効果を生んだりしているということを意識するようになったのは、最近のことだ。私がそれを意識するようになった経緯は一旦置いておくとして。その相互作用のことを私たちは「仕組み」と呼んでいる。複雑な電子機器が身の回りにあふれかえる現在。普通に生活していればそれらの電子機器の仕組みに思いを馳せることは殆どない。そんなこと気にしなくてもスマートフォンは動くし、タブレットもちゃんと反応してくれるからだ。

 電子機器に限らず、社会も色々なパーツの集合体だ。それを構成するパーツもまた、細分化することができる。そして私が普段読んでいるような小説も、やはり、様々なパーツ、要素と言い換えてもいい、の集合体なのである。その要素の相互作用により、読者は心動かされ、時に感動するのだ。

 小説を読む際に、必ずしもその構成要素に詳しくある必要はない。「人称」が、「時制」が、などということを意識しなくても、私たちは物語の筋を追うことができるからだ。しかし、あなたが創作者たらんとするならば、小説を構成する要素を解剖し、分類し、分析する能力と情熱が必要となるだろう。いや、創作者に限ることではないのだ、アルベール・チボーデの言う「リズール(精読者)」や、ウラジーミル・ナボコフが唱えたような、作家の感じた「霊感」を感じられるような読者たらんとするならば、我々は小説を構成するパーツにまで目を向けなければならない。

 バルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』[i]を読み返しながら、私はそんなことを考えていた。この本は、ペルー生まれの小説家マリオ・バルガス=リョサによる、小説家志望の青年の手紙への返信という形式で書かれた小説論である。題名からわかるように、小説家を目指す人を主要な読者と想定した内容だ。第一章、第二章の「サナダムシの寓話」、「カトブレパス」で小説を書くモチベーションに関する話があり、それに続くのは「説得力」、「文体」、「語り手。空間」といった小説を構成する形式や要素だ。物語の解剖と、分析、なんとなくジュネットの『物語のディスクール』を思い出させるが、そんなに肩を張る必要はない。書簡体で書かれているので、無理なく読み通すことができる。

 しかし、比較的容易に読み通せるといっても内容は非常に濃い。第一章の「サナダムシの寓話」では、小説家という生き方を選び取る覚悟がどれほど重いものかが語られる。小説家を、体型維持のためにサナダムシを飲む決心をした結果、サナダムシの奴隷と化した人に喩えているのだ。つまり、「文学の仕事というのは、暇つぶしでも、スポーツでも、余暇を楽しむための上品なお遊びでもありません。他のことすべてをあきらめ、なげうって、何よりも優先させるべきものですし、自らの意志で文学に仕え、その犠牲者(幸せな犠牲者)になると決めたわけですから、奴隷に他ならないのです」[ii]というわけだ。

 この世界には何かしらの媒介で自分を表現し続けなければ生きていけない人々がいる。小説家は、そうした表現者たちの一種で、彼らにとって表現の媒体は小説なのである。音楽家が音楽を演奏し、画家が絵を描くように、小説家は小説を書く。当たり前のことのようだけれども、表現し続けるというのは大変なことだ。しかし、彼らは表現せずにはいられない。それが彼らにとって生きるということだから。そこには輝きがあり、それは私を魅了する。私はその輝きに憧れ、その輝きを自ら生み出せない者である。表現者の輝きをなんとか感じようとして、私は小説を読み続けている。

 小説の解剖と分類、様々な作品の例を引きながら、「手紙」は続く。物語の持つ魔術的な効果を極限まで高める手法や形式。物語の書き方と、本の読み方が読者に提示される。しかし、小説とはそうした様々な手法や形式の複合物であり、本来的にそれは分解できないものなのだ。著者の言葉を借りるなら「それらは分割することのできない一個の全体」[iii]である。最後の章で、バルガス=リョサは文学的創作が理性と知性に加え、直感、感受性、洞察力、偶然が作用していることを語る。言語化できない領域、ある種の霊感のようなもの、それらは実際に創作し続けなければわからない。だからこそ、彼は次のような文章で章を結ぶ。「親愛なる友よ、私が小説の形式に関してこれまで手紙に書いてきたことはきれいさっぱり忘れて、まずは思い切って小説を書き始めてください」[iv]と。

 「まずは思い切って小説を読み始めよう」と私は思う。こんな魅力的な文学論を読んだら、もう小説を読むしかないのだ。


(2021年7月7日 りん)

[i] バルガス=リョサ著、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』、新潮社、2000年。

[ii] 同上書、16頁。

[iii] 同上書、144頁。

[iv] 同上書、145頁。


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