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9月, 2021の投稿を表示しています

過去からの負債か?未来からの投資か?—アパデュライの「消費」論からの示唆—

実は後悔していることがあります。 4年前のあるとき、Amazonにクレジットカードを登録してしまったことです。 いやもっと言えばクレジットカードそのものを作ってしまったことを後悔しているのかもしれません。 クレジットカードの仕組みそのものに疑問を持っているというか、ローンなども含めて将来の所得を担保に何かを購入するということ自体に何か強い不信感を抱いているというのが正確なんでしょうね。 否応なしに消費と労働のサイクルに巻き込まれているようなそんな気がして。 最初にクレジットカードを作ったときは、飛行機のチケット購入やKindleの購入に必要だったためしょうがないとはいえ、自分の口座の残高や現在の所持金という確たる後ろ盾のない、自分が将来得るはずの給与なり金銭を質にいれて物を買うことを何の気なしに行ってしまったことは、いまに至るまで僕を苦しめているような、そんな気がしています。 実は、読書会でアパデュライの論に触れたことで、上記の考えを整理できるようになったのでした。それまでは漠とした不信感だったものが、それを表現するにふさわしい言葉を得たというか、そんな感覚です。 アパデュライは、自著の中で直接クレジットカードの仕組みに文句を言っているわけではないのですが、第4章「消費、持続、歴史」において消費に関する論を展開していく中で、間接的にローンなどの金融商品について言及し、それがどのようなものかを論じています。 彼はまず、人類学の議論を援用することで、消費という行為を新古典派経済学の理論から切り離す作業を行います。 そもそも消費というのは 反復 によって特徴付けられており、その周期性によって習慣化されていく。なぜなら、消費とは、マルセル・モースがいうところの「身体技法」へと収斂していき、身体が反復的、あるいは少なくとも周期的な規律を求めることになるからである。 「 消費が周期性によって特徴づけられている 」というのはなるほどと言った感じです。 我々の生活というのは、例えば朝起きてから夜寝るまでの生活を思い浮かべればわかるように、どれほど新規性を志向しようとも、最終的にはある程度の同型の行為の反復に収斂していく。 消費とは生活と密着した行為であり、それは社会的なものでもあります。消費は社会生活であったり、生活習慣であったり、様々なものによって規定され、やはり身体技法へと収斂...

土地と境界と水をめぐって

前回の読書会(8月27日)では、民族暴動や、エスニシティの異なる隣人との間で血みどろかつ大規模な暴力が起きることについてのアパデュライの考察を取り上げた。そこで隣人との暴力の応酬という事象を枕に、自分が土地や水や境界をめぐってぼんやりと考えていたことを思うままにつらつら書いていこうと思う。 とは言っても、この記事を書いている僕ことラシード(仮)は、労働の魔の手にかかり読書会に間に合わなかったため、以下の話はアパデュライの議論の本筋とは関わりのない話である。 少し前、知り合いが田んぼの水をめぐる紛争の話をFacebookに投稿していた。 その方は70代中盤の高齢の方だが、SNSで広く交流をしていたり、自分で育てた作物を加工して販売していたりと非常に活発な方だ。 彼女が住んでいるのは僕の地元で、俗にいう限界集落であり、今では過疎化が急激に進んでいる。 曰く、彼女の義理の父や祖父が若い頃は、この集落でも上流の地域と下流の地域で水をめぐって諍いが起き、暴力沙汰に発展することも珍しくなかったという。 この投稿を見た時、ハッと思ったことがあった。 僕自身、大学で歴史学を学び、深く立ち入ったわけではないにしろ、セミナーで土地をめぐる裁判記録などを講読したこともあるし、歴史上、水をめぐる争いは非常に深刻であったこと、また自分の専門にしている地域が、とりわけ水資源に非常に大きく左右されてきたことも頭では理解していたつもりだった。 ただ、彼女の投稿を読むまで、今を生きる自分自身の肌感覚としても、その土地に生まれ育った者としても、水をめぐる切羽詰まった状況への理解がおよんでいなかったのではないかという疑念を抱いたのであった。つまり、どこかそこにある世界を他人事のように感じていたのではないかと。 自分が大学進学まで暮らしてきたまさにその土地で、自分やその近しい人間の先祖が、ごく最近まで水をめぐって争うことが頻繁にあった。この投稿を見た際、地元の馴染みのある風景と共に、すごく鮮明に当時の情景を脳裏に浮かび上がらせることになった。 水をめぐる争いというのは、土地をめぐる争いとも地続きである。土地を分けるというのは、そこに境界が生まれることを意味する。 よくよく思い返すと、僕の祖父も土地の境界をめぐって険悪な雰囲気になっていたことがあった。といっても、祖父は当時すでに認知症が進行しており、そうし...